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高橋昌一郎著「知性の限界」を読み終えました [本を読んでいる]

昨夜、自宅のリビングのソファーで、高橋昌一郎著「知性の限界」を読み終えました。この本はアマゾンのカスタマーレビュー等で高評価だったので、(何か得る所が大なのではと)期待して読んだのですが、深く何かを掘り下げて解説するという類の本ではなく、どちらかというと20世紀に入ってからの、現代哲学や物理学などの大きなトピックス等を簡単に紹介した読み物といった感じで、私としては少し拍子抜けしたというのが正直な感想です。
読んでいて、特に興味を惹かれたのは「サイエンス・ウォーズ」について書かれた部分でした。これは1990年代に起きたソーカル事件(注)を契機に、「いかにポストモダニズム系学者が「無意味な」用語を濫用(本文からの抜粋)」し、「知的詐欺」「知の欺瞞」を働いているかという事で、理系学者と文系学者間の論争となったとのことなのですが、ゴシップというか下世話な話ながらも、本文100~104Pに掲載されたリストと内容を見ると、思わず失笑せざるを得ないほど、酷いものです。例えば、このリストに載っていたクリステヴァの文章を引用しますと、

鏡像状態に引き続く統語論的操作において、主体=患者は彼の単一性をすでに保証されている。意味生成における「点∞」への彼の逃走は止められている。たとえば通常の空間R^3上のある集合C0-------そこにはR^3(Rの3乗)上のあらゆる連続関数Fとあらゆる整数n>0に対してF(X)がnをこえる点Xの集合が有界なのだが-------のことが考えられる。変数Xが「別のシーン」に引き退くとき、C0の関数は0に近づくのであるから、この圏において、C0のおかれた主体=患者はラカンが言及し、彼が主体として自身を喪失する「言語の外なる中心」に到達しない、すなわち、トポロジーが環として指示する関係の群を表現する状況である(本文100Pより抜粋)

といった具合で、まったく意味不明としか言いようがない、難しい単語の単なる羅列になってしまっています。たしかに、デリダやドゥルーズ、ラカンといった学者の著作は、読んでいて、文学的というか詩的イメージは膨らむものの、何を語っているのかさっぱり分からない文章ってありますよね。私はこれまで翻訳のせいなのかと思っていたのですが、元々が意味不明だとは思ってもいませんでした。1980年代に日本でも流行ったニューアカデミズムの本にも、一部こうした傾向は散見されたかと思います。
私のように、この歳(49歳)になってしまうとと、一応は(理解しようと)頑張ってはみるものの、分からないものは「分からないや!」と投げ出してしまう諦めの良さというか、ふてぶてしさ(苦笑)は備えていますので、実害にあうことはないのですが、10代、20代の若い方にとっては、こうした大人の知的欺瞞は、たちが悪いというか、百害あって一利なしです。あってはならない事だと思いました。

(注)ソーカル事件
ニューヨーク大学物理学教授(専門は統計力学、場の量子論)だったアラン・ソーカル(Alan Sokal、1955年-)が起こした事件。数学・科学用語を権威付けとしてでたらめに使用した人文評論家を批判するために、同じように、科学用語と数式をちりばめた無意味な内容の疑似哲学論文を作成し、これを著名な評論誌に送ったところ、雑誌の編集者のチェックを経て掲載されたできごとを指す。(以上「Wikipedia」からの引用)

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写真は高橋昌一郎「知性の限界」(講談社現代文庫)。この前作で「理性の限界」という本も出ています。