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通勤電車の中で猪木武徳著「社会思想としてのクラシック音楽」を読み終えました [小説を書いている]

昨日、会社に向かう電車の中で、猪木武徳著「社会思想としてのクラシック音楽」(新潮選書)を読み終えました。この本は以前、日本経済新聞の書評で薦められていて興味を持ち、図書館で貸出予約をして、やっとこうして借りることができたものです。

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猪木武徳著「社会思想としてのクラシック音楽」(新潮選書)

「本書は筆者の研究分野である社会思想、特にアダム・スミス、トクヴィル、オルテガなどの自由思想の視点からクラシック音楽の歴史を振り返ったもの」(以上、本書「あとがき」からの引用です)でして、筆者の猪木氏は経済学者で、大阪大学の名誉教授です。本書、そして内容は以下の各章から構成されています。

「神」に曲を捧げたバッハ。「貴族」のために曲を書いたハイドンと、「パトロン」を失ってから傑作を連発したモーツァルト。「革命」の足音を聞きながら作曲したベートーヴェン、「大衆」を酔わせたワーグナー、「民族」を意識したヤナーチェク。そして、「独裁者」に頌歌を要求されたショスタコーヴィチは……!? 音楽家たちを一流の思想家として描き直し、彼らが見事に捉えていた政治と経済の構造変化から、近代社会の光と影を浮かび上がらせる。
(以上、「Amazon」商品の説明「出版社からのコメント」からの引用です)

第一章 芸術の「送り手」は誰を意識したか
第二章 自意識と流行
第三章 ナショナリズムの現れ方
第四章 体制と芸術における「規模」
第五章 技術進歩がもたらす平等化
第六章 パトロンと批評家の応援
第七章 政治体制と音楽家
第八章 言葉、音楽、デモクラシー

どの章も、とても興味深く読んだのですが、私は特に第八章の『3.「調性を失った音楽」が意味するもの-デモクラシーと芸術の運命』は、思わず夢中になって読みました。深く考え抜かれた素晴らしい論考であると感心することしきりです。著者はなんて高い教養を備えた方なんでしょうか。翻って、自身の無教養さを恥じるばかりです。

本書を読むと、社会思想、政治体制と芸術(音楽)は密接に関係しあい、場合によってはお互いに影響を与え合っていることが良く分かります。そうした環境の中で、各々の音楽家たちがあるときは運命に弄ばれ、またある時には自ら運命を切り開きながら生きていく様は、時に非常にスリリングなものとなります。モーツァルトしかり、ワーグナーしかり、そしてショスタコーヴィチしかりです。

ただ、そうにも関わらず、彼らの音楽は時を超えて、私たちを感動させ、ミューズの存在を確信させます。では、現代における「調性がない」音楽は一体、どのように位置付ければ良いのでしょうか。

それは聴衆の不在であり、著者のいうとおり、価値という概念とは無縁な音の世界の出来であり、政治体制との類比で考えれば、徹底した平等を謳うデモクラシーは、十二音の音高の均等性によって中心を失った音楽のように。「多数の専制」がもたらす無秩序が、政治権力によって強いられた見せかけの秩序という、自由の精神とは全くかけ離れた世界と見ることが出来よう。(以上、本書における著者の最後の文章からの抜粋、引用です)

この結びの文章には痺れます。本当に素晴らしい考察だと、ただただ感心した次第です。実際のところ、音楽、そして社会は一体、どこに向かっていくのでしょうか。正直に言って、それはあまり良くない方向であるような気が、私もしてなりません。


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