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久しぶりに九州の実家に帰省しました(2) [旅をしている]

先週の金曜日の夜に九州、大分の実家に帰省し、土曜日には別府のリサイクルショップを巡ったり、離れのオーディオシステムを整える作業などを終えると、日曜日は特に用事も無くなってしまいました。そこで母を連れだして、午後から(借りているレンタカーを使って)ドライブをすることにしました。

杵築市街を通って国道213号を暫く北上すると、帰省した時にはいつも訪れるうどん屋「元禄うどん」に着きました。亡き父も好きだったこのお店で、私はごぼ天そば、母は冷たい山かけそばを頂き、また車に乗ってドライブの始まりです。そのまま国道213号を北上し、海沿いに車を走らせます。

暫く走り、国東市国見町大熊毛で左折し、道沿いにあるお寺を訪れました。ここには母方の先祖代々のお墓があるのです。お墓参りを終え、また車に乗りドライブの再開です。ちょうど天気も良く、とても気持ちの良いドライブとなりました。「道の駅くにみ」で車を停め、母は地元の特産品の野菜や果物など、私は地元の陶芸教室の方が作ったおちょこを、なんと百円で買い求めました。

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こちらが母方のお墓。山の急な斜面に立っています。

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そして、こちらが国道213号沿い、海の近くに建つ「道の駅くにみ」。キャンプ場なども併設されているようです。

また暫く車を走らせ、今度は豊後高田市にある長崎鼻に向かいました。ここは「国東半島の先端あたりに位置します。周防灘に向かい「鼻」のように突き出した岬」(長崎鼻HPの説明文からの引用)でして、近くに姫島が望み、遠くに周防灘を隔てて四国、中国を望めることができます。また、今の時期は一面の菜の花畑で有名なところです。母と二人で岬から望む海を眺め、菜の花畑を散策し、この地区( 香々地)の出身で北原白秋の2番目の妻でもあった、薄幸の歌人といわれる江口章子(えぐち あやこ 1988~1946年)の歌碑を見ました。

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こちらが長崎鼻から眺めた海の様子。下の写真では遠くに姫島が写っています。

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こちらが長崎鼻の菜の花畑の様子。それなりに観光客の姿もみることができました。菜の花畑を見ると、私はいつも亡き父のことを思い出します。亡くなって、火葬場に亡骸を運ぶときに、父の生家の近くに美しい菜の花畑がひろがっていたのです。母も同じ想いだったようで、しみじみと「お父さんのことを思い出すわ」と言っていました。この長崎鼻に限らず、今回のドライブでは途中、多くの菜の花畑を目にしました。

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そして、こちらが江口章子の歌碑

ふるさとの
  香々地にかへり 泣かむものか
    生まれし砂に 顔はあてつつ

彼女の生涯は、文学的な才能に恵まれながらも、所謂、昔ながらの「家庭」という枠には収まりきれず「恋多き女性」の人生を送った人ならではの壮絶なものとも言ってよいもので、晩年は精神を病んだりしているのですが、この故郷を思う歌にも、彼女の気性の激しさが見て取れます。とはいえ、何とも言いようのない気持ちにさせる歌です。私は、母が語る彼女の生涯に耳を傾けながら、この歌人の人生に思いを馳せました。

江口章子は、
1988年、大分県西国東郡(現杵築市)生まれ。
1904年、大分県立第一高等女学校入学。
1906年、女学校で見合いをして結婚。大分市に新居。
1912年、夫の不行跡に悩み出奔、平塚らいてうを頼る。後に北原白秋を知る。
1913年、三浦三崎に白秋をたずね、城ヶ島へ同行。『城ヶ島の雨』はその時に作詩される。章子、出奔の詫を入れ夫の元に帰る。
1915年、協議離婚。単身上京し「青鞜社」の仕事をする。翌年白秋と同居。
1918年、「新潮」に『妻の観たる北原白秋』を書く。この頃から章子の文芸活動が活発になる。
1919年、北原白秋と婚姻届出。1920年、白秋の『雀の生活』の跋文を書く。「木菟の家」の新館建築に尽力。5月に白秋と離婚。別府に帰り「銅御殿」(あかがねごてん)に柳原白蓮をたずね、少時そこに住む。
1921年、京都大徳寺に入る。
1923年、一休寺住職と再婚し京都に移るが家を出て上京。関東大震災にあう。
1927年、中村戒仙と同居。
1928年、詩文集『女人山居』出版。
1930年5月 死の約束をしていた生田春月が瀬戸内海で投身自殺、悲歎にくれる。10月、中村戒仙と婚姻届出。この頃から神経を病む。
1931年、発病。京大精神科に入院し退院。
1933年、法要時に裸身で座禅をくむ。入院。
1934年、詩集『追分の心』出版。
1937年、脳溢血で半身不随となる。
1938年、中村戒仙と離婚。
1939年、卜部鉄心と同居。以降、脳溢血を繰り返し、
1946年、脳軟化症で永眠。
(末永文子著「城ヶ島の雨」からの引用。一部加筆、改行等の処理を行っています)

今度は国東半島の東側を走った後、国道10号に入り、実家のある杵築に向かいました。そして途中、山香町には昔よく通った「山香温泉センター」に寄ってみることにしました(以前、この「山香温泉センター」について書いた記事はこちらになります→https://syoso-chunen.blog.ss-blog.jp/2011-12-12-1。ここは一見、何の変哲もない共同浴場のように見えますが、そこに湧く温泉は隠れた名湯として一部の人には良く知られているものです。多分、私も以前は帰省の度に良く通ったものですが、最近はめっきりご無沙汰となってしまっていました。ご存じの方も多いかと思いますが、今、杵築市は深刻な財政難に陥っていまして、この「山香温泉センター」も緊縮財政のため閉鎖されると聞き、とても心配していました。訪れてみると営業しており、係の方に訊いてみると今後も閉鎖はせず、営業を続けるようになったとのこと。本当に良かったです。ここの湯は濃く濁った色をしていて、塩分と共に鉄分を多く含んでいます。係の方によると150年近くの歴史を誇る温泉とのことで、鄙びたその雰囲気といい、まさに名湯といってよいかと思います。

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こちらが「山香温泉センター」。ただの共同浴場のようですが、れっきとした温泉風呂です

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こちらが浴場(男子用)の様子。なんとも鄙びた雰囲気ながら、その湯質は素晴らしいものです。

せっかくだからと、私は久しぶりにこの温泉に入りました。いやあ、本当に気持ちの良いお湯でした。こうして私と母の半日ドライブは終わりました。今回は、いつも訪れている国東市のジャズ喫茶店「艸艸庵(そうそうあん)」等へは再訪が叶いませんでしたが、それでも天気に恵まれた、気持ちの良いドライブとなりました。